軍と人類学者

一、二週間前から朝夕めっきり冷え込むようになった。
今朝出勤時にふと庭の木々に目をやると、葡萄棚に生い茂った葉が茶色く色づき始めていた。
奇しくもその数分後、iPodからCannonball AdderleyのAutumn Leavesが流れてきて、その偶然に秋の本格的な到来を耳からも実感した気がした。


そういえば仕事に行くにも素足にサンダル履きでずっと通していたハウスメイトは昨日、四月以来初めて靴下を履いたと少々興奮気味に話していたな。
そして今朝、同僚の一人は早くも冬用のもこもこしたハーフコートを着ていた。それは幾らなんでも早すぎでしょ(笑)。
とはいっても彼の場合、インドのバンガロールという冬でも15度くらいまでしか気温の下がらない土地の出身なので、そもそも肌が寒さに慣れていないのだろう。それにしても、カンジーをもっと人懐っこくしたような顔のこのインド人のおっさん、今からこの格好でマイナス15〜20度まで下がるカブールの冬を生きて越せるのだろうか。


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アメリカの人類学者がアフガニスタンイラクにおけるアメリカ軍の活動に関わっているという。色々と考えさせられる、よい記事だ。


Army Enlists Anthropology in War Zones - The New York Times


記事から思い出したのは、日本との太平洋戦争においてアメリカ軍がルース・ベネディクトら人類学者を招集し「未知なる」日本人の性質を学術的に分析させ、その研究結果をもとに戦争を有利に運ぼうと努めた逸話だ。


Ruth Benedict - Wikipedia


しかし、アフガニスタンにおける人類学者の役割はいくつかの点でベネディクトらとは異なる。まず、ベネディクトらが日本に全く訪れたことがなかったのに対し、アフガニスタンで人類学者らは部隊と共に現場で行動し、個々の治安維持活動にまで関わっているという点。またもう一つは目的に関して。ベネディクトらの研究成果は、究極的には日本との戦争への勝利に資することが期待されていたと思うが、アフガニスタンに従軍する人類学者はアフガン人とアメリカ軍との相互理解を深めて「戦闘」を減らすことが大きな目的だという。


記事に拠れば人類学者が投入されてから実際に戦闘数が60%も減ったとあり(もちろん減少の要因全てをこの人類学者たちに帰するのは無理があると思われるが)、この試みに私は注目したい。無益な戦闘をできるだけ減じるだけでなく、戦争の究極的勝利は“戦わずして人の兵を屈する”(『孫子』)ことに存するだろうから。あ、そういう意味では究極的にはアフガニスタンにおける人類学者も勝利に資することが期待されていると言えるか。


他方、この人類学者らの活動やアドバイスが、戦闘を減ずるという目的に反して利用されてしまう可能性があるのは否めない。例えば彼らのアドバイスを別の者が敵愾心を煽るために利用しアフガン人同士を敵対させるとか。また彼らの意思決定が部隊の意思決定にどのように組み込まれるのか、またどのくらい尊重されるのか、このあたりが非常に気になるところだ。今のところ彼らの役割を過大評価することに私は慎重である。というのもまだ彼らの人数・予算・活動場面が限定的だからで、アメリカの軍事・外交戦略策定に参画するような役割は与えられていない。彼らのような素養や経験がもっとそのような戦略策定プロセスに生かされるべきだろう。それが現在のアフガニスタンイラクでのアメリカ軍の行き詰まりを脱却させる一つの手立てかもしれないと思うのだ。


この人類学者たちには残念ながら会ったことがないが、アメリカの部隊にはアフガン人通訳が必ず行動を共にしており、彼らと話すことも時折あった。多くは現地の若者であるが、中にはアフガン系アメリカ人もいて、アメリカがまさに多民族国家であることを実感する。このようなアフガン系アメリカ人通訳は元来アフガニスタンからの移民なので、アフガニスタンの文化に通じている。英語に関してもほぼネイティブ並みであり、英語力に往々にして難がある現地採用の通訳と比べ、軍関係者とのコミュニケートもスムースだ。彼らの文脈に即した巧みな通訳が、アメリカ軍と地元関係者との間の摩擦を減じるのに多大な貢献をしていることは想像に難くない。余談ながら私自身も通訳の質が仕事の質に大きく影響することを身をもって経験しており、通訳という存在はプログラムの成否を決める隠れた大事な要素だと感じている。彼らは通訳の場面で間接的ながら人類学的素養の実践をその都度求められているとも言えるだろう。