モハンマド風刺をめぐる暴動事件

6日月曜日の朝のことだった。パンジシールで仕事を始める前、同僚とマスード将軍廟を訪れていた(現在改築中で、まだかなり質素な趣だった)。将軍廟はパンジシール渓谷の中でも屈指の眺望を誇る高台に位置し、眼下には川や段々畑、そして頭上には雪を抱いた岩山が一望できる。しばし景観を楽しんでから車に戻ると、Rさんが少々シリアスな表情をしている。

「トモ、早く仕事現場に戻ったほうがいい。」
「なんで?」
「たった今、無線で連絡を受けたんだけれど、デモンストレーションが始まったらしい。私たちが道で出くわしてしまうと危険かもしれない。」

日本で行われるデモとアフガニスタンのそれとでは、趣が異なる。端的に言えば、アフガニスタンのデモは暴力に転化しやすいからだ。私たちは急いで仕事現場に戻り、車両を建物の陰に駐車して、デモの一群からは見えないようにし、弾薬回収作業も、彼らの目に触れない位置でのみ行うことにした。

デモは結局昼の1時過ぎまで続いていた。私が物陰から確認した限り、参加人数は決して多くなかった(推測200人前後)が、PRT(アメリカ等の小規模の軍と開発関係者のユニット)の駐留する敷地の前で投石が行われたり、噂によると国連関係者の車が投石を受けてフロントガラスを割られたりと、被害があったらしい。

私たちはあらゆる手段を使って情報収集に努め、安全に移動ができることを確認してから車両を移動し始めた。しかし、パンジシールの中心地ロハ地区にはまだ若干の人が屯しており、普段に比べてその視線が攻撃的に見える。とはいえ、何事もなく通過し、無事に帰路に着くことができた。

ところが、その帰路にまたしてもデモの一群に遭遇しそうになった。場所はアメリカ軍が駐留するバグラム空軍基地周辺だった。車で移動中に周辺住民から「近づかないほうがいい」と声をかけてもらったおかげで、危険な地域までは入っていなかった。確かにその先には焼き討ちされた車両が見える。後で聞いたところでは、バグラム周辺で死者も出た由。

これはどの国でも当てはまるかもしれないが、危険な状況では現地の人の情報が何よりも大切になってくる。そしてアフガニスタンではそれが如実だ。