become Harukist?

Eid-al-fitr(ラマダン明けの祭り)のため、昨日今日と連休。
家でのんびりと過ごす。
ネットやメールをチェックしたり、調子の悪いipodのセッティングを修正したり、
テレビを見たり、ジョギングをしたり、ラーメンを作ったり。
日本に居るのとほとんど変わらない生活パターンかもしれない。
でも強いて言うとショッピングとか飲みに行くとか、
「外出する」という選択肢をほとんど取らない(ようにしている、もしくは取れない)ので、
そこの制限に心労を感じる人には相当息苦しい生活パターンではある。


昨日今日と久々に小説を読んだ。
それも村上春樹ノルウェイの森』!
ノルウェイの森 上 (講談社文庫) ノルウェイの森 下 (講談社文庫)
この年齢で今更という感があるので、
ここに書くのは憚られたのだが、
小説を読むことの醍醐味を久々に味わえたので、
ちょっと触れておきたいと思った。


あまりに人口に膾炙したストーリーかもしれないので、
ここでは繰り返さない。
一つ思ったのは、今の年齢だからこその読み方・感じ方があるなぁと。
読みながら自分の大学生のときのこと、友人のことなどを
何度も何度も思い出し、照らし合わせながら読んだ。
そして主人公と同じように、色濃く思い出せることもあれば、
淡い記憶、遠い記憶、失われた記憶(思い出せないこと)が
膨大にあることにも気づかされた。
仮に高校生のときに読んだら、どう思っただろう?
そしてどうその後の人生は変わっていただろう?


また、ストーリーへの自己没入もさることながら、
節々の描写、科白にはっとさせられたり、
読んでいるときに時間の経過を忘れていたり、
そもそもそうやって小説をひたすら読むという行為に
恍惚感を感じていた。
大学生のときに自分の部屋で好きな音楽をかけながら
時を忘れて小説を読み耽っていた頃に
タイムスリップしたかのようだった。


ハルキストに怒られるかもしれないので、
小声で言いたいのだが、
実はこれまで私は村上春樹のあまり良い読者ではなかった。
うまい小説ではあるのだけれど、
シンクロ感があまり湧いてこなかった。
私の中にある引き出しの数の少なさ・偏りが
彼の小説の良さを上手く受け止められなかったのだろう。
でも今回はたまたま成田空港で手にしたこの小説が、
また別の村上春樹像を私に与えてくれた。